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名将か大ペテン師か??




その時…昭和16(1941)年12月8日午前3時25分

    (現地時間7日午前7時55分)

出来事…日本軍、ハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃




 太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。この作戦を立案・指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六(いそろく)の生涯を描く前・後編の2回シリーズ。後編は、真珠湾作戦決行そのものを克明に描く。



航空隊で米軍の拠点・真珠湾を撃破するという山本の作戦。緒戦で敵に大打撃を与え、戦争を早期に終息させることが日本の唯一生き残る道と信じ、山本は作戦遂行に邁進する。しかし、そこには多くの困難があった。ハワイまで米軍に知られず接近できるか。水深12m程の浅い湾で既存の魚雷が使えるか。その難問を克服するため、山本は技術開発と極秘訓練を繰り返す。その一方で山本は、開戦回避に向けた外交交渉に最後まで望みをつないでいた。山本は交渉妥結の見込みがあれば、作戦を中止するよう指示していた。

しかし、外交交渉は決裂。12月8日(現地時間7日)、ついに真珠湾攻撃が開始された。百機を超える航空隊の徹底した攻撃は予想を超える大戦果をあげる。しかし、実際は、空母や軍事施設を攻撃できず、山本は作戦を全うできなかった。

アメリカはこの経験から航空戦力強化へ戦略を転換。当初の山本の狙いは外れ戦争は長期化し、多大な犠牲を生むことになる。

番組では、関係者の証言や防衛研究所の資料を読み解き、真珠湾攻撃と五十六の生涯を克明に描く。




番組の内容について

○「その時」について

昭和16(1941)年の1月7日、山本五十六が真珠湾攻撃の作戦書を海軍大臣・及川古志郎に提出した時


○山本五十六について

山本 五十六(やまもと いそろく)

1884(明治17)年4月4日生-1943(昭和18)年4月18日)没

大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。戦死時の階級は海軍大将で、死後、元帥。


○真珠湾攻撃の時刻について

日本時間で第1次攻撃がはじまった時刻として「12月8日午前3時25分」を表記。ハワイ現地時間だと「12月7日午前7時55分」となります


○「日米戦争は一大凶事(きょうじ)なり」という山本の言葉

※連合艦隊司令長官時代、山本が提出した意見書より


○山本五十六の名前について

山本五十六は、旧長岡藩士の家系・高野貞吉(さだよし)の六男です。しかし、大正5年33歳の時、旧長岡藩士の山本帯刀の養子となり家督を相続。以降、山本姓となりました。

日本海開戦時は高野五十六の名前でしたが、番組では混乱を避けるため、広く知られている「山本五十六」で統一しました。


○日本海海戦(日露戦争)の制服、親への手紙について

日本海海戦時に着用していた制服、および、療養中に親へと送った手紙ともに、

新潟県長岡市の「如(にょ)是(ぜ)蔵(ぞう)博物館」に所蔵されております。

*如是蔵博物館:住所 新潟県長岡市福住1丁目3-8


○療養中親へ送った手紙について

「微傷(びしょう)をもって、此(こ)の大勝の萬(まん)一(いち)に値せしことを思へば、むしろ感泣(かんきゅう)に不堪(たえず)」

(※一部抜粋)


○日米の仮想敵国について

日本は、明治40(1907)年に制定された「帝国国防方針」という国防対策の基本方針の中で、ロシア・アメリカ・フランス・ドイツを仮想敵国とし、これらの国に対抗するため陸海軍備の充実をはかっていった。

対する
アメリカも対日戦争計画「オレンジ・プラン」を1907年に策定し両国はお互いを仮想敵国と想定していました。


○アメリカを視察した山本の言葉

「日本の国力でアメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるものではない」

山本は大正8~10年米国駐在武官、大正14~15年米国在勤日本大使館付武官を勤め、米国各地を視察しています。


○軍縮条約について

山本が全権代表に任命されたのは、昭和9(1934)年第2次ロンドン軍縮会議の予備交渉です。

番組での表現「これまで定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率は、5対5対3」は、大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められた主力艦保有比率です。


○第2次ロンドン軍縮条約予備交渉に関して

日本政府(岡田内閣)は予備交渉に対し、差別比率主義の排撃、総トン数主義の採用、ワシントン条約の廃止などを骨子とする根本方針を決定していました。

日本国内で屈辱的条約破棄を主張する声は高く、日本政府は不平等条約破棄を主張していましたが、山本は日本側条件の譲歩を求めた請訓を2度ほどロンドンから日本政府へと送っています。しかし、日本政府はこの予備交渉の内容をよしとせず、1934(昭和9)年12月ワシントン条約を破棄、1936年1月ロンドン軍縮会議も脱退します。


○軍縮条約に関する山本の真意(考え方)について

「条約は、日本が3に縛られているのではない、米英を5に縛っている。

条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば国力の差から、5対3どころか10対1に引き離される。」

※山本の発言をまとめた言葉です


○山本の言葉について

「海軍を退いて郷里の長岡に帰るか、モナコでばくち打ちにでもなるか」*なぜ、モナコか

※当時山本は周囲の人に上記のような言葉を語っていました


○「帝国国防方針」について

日露戦争後、1907年4月に制定された国防対策の基本方針


○「八八艦隊(はちはちかんたい)」について

「帝国国防方針」に付属する「国防所要兵力」中に示された戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を中心に艦隊を装備しようとした日本海軍の方針


○三国同盟について

正式には“日独伊三国同盟”。番組内では、当時山本たちが残した言葉でも使われることの多い、簡略化した“三国同盟”の表現を使いました。


○三国同盟に反対する山本の言葉

「日米正面衝突を回避するため、万般(ばんぱん)の策をめぐらすべきで、

 絶対に日独同盟を締結すべきではない」


○山本の遺書について

昭和14年5月31日付け、山本の遺書“述志”からの一部抜粋。

「この身(み)滅(ほろ)ぼすべし、この志奪(こころざし・うば)ふべからず。」

※防衛研究所に所収


○五十六の長男、山本義正さんの手紙について

今回番組では、山本五十六の長男・山本義正(やまもと よしまさ)さんに当時の家庭での山本五十六の状況をお手紙でお伺いすることができました。

下記、番組内で抜粋した義正さんの手紙の文面(※一部抜粋)

「父の帰宅は深夜に及びました。毎晩のように遅く訪れる客。

 刺客や暴漢が押し入ろうとすれば簡単に入ってこられる無防備な家でした。」

「何時修羅場が起きるかも分からない状況の中で母は毅然とした態度をくずさず、

 子どもたちに不安を抱かせるような様子は一切見せませんでした。」

「私は父の書斎の机の上の本を何気なく手に取りました。

 見開きを開けると毛筆で大きく父の字が躍っていました。」

「国(くに)大(だい)なりといえども 戦(いくさ)を好(この)まば必ず亡(ほろ)ぶ」

 (※「国大なり…」は、山本五十六がよく書いていた言葉です)


○三国同盟に対する方針を決める海軍会議における山本の言葉

「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足している上に、

 米英からの資材はこなくなる。一体これをどうするつもりなのか。」


○対米戦について述べた山本の言葉

「アメリカと戦争すると言うことは、全世界を相手にすることだ。

 東京辺りは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」


○五十六の長男・山本義正さんの手紙内容について(スタジオでご紹介したもの)

「このころの世の中は、五・一五、二・二六、陸軍軍務局長の刺殺など殺伐とした事件が

次から次へと起きていた時代でした。私は、今も父の遺書を繰り返し読むとき、

武人として華々しく第一戦で戦死することでなく、世を挙げての亡国の風潮に抗して、

ここを死にどころとして戦い続けた父の姿を今も思い出します。」

(※一部抜粋)


○山本が友人へ送った手紙について

「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、

 其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。

 これもさだめ(※命)というものか」

※友人とは、堀悌吉(ほりていきち)―海軍兵学校第32期の山本の同期。「兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」といわれ、山本とは盟友であった。しかし、昭和9年山本が日本代表として、第2次ロンドン軍縮会議予備交渉に臨んでいるあいだに、“条約締結”“国際協調”派であった堀は、予備役編入という左遷人事を受けていた。山本は盟友・堀に何通もの心情を書いた手紙を送っている。(※一部抜粋)


○「漸減(ぜんげん)邀撃(ようげき)作戦(さくせん)」について

太平洋の日本側でアメリカ艦隊を待ち受け、駆逐艦などを使ってアメリカ艦隊を少しずつ減らし、戦艦決戦で勝負をつけるという作戦


○大艦巨砲主義に反対した山本の言葉について

「巨艦を造っても不沈はありえない。今後の戦闘で戦艦は無用の長物となる。

 飛行機の攻撃力が、非常なる威力を増大する」


○紹介した航空機について

山本が航空本部長就任の頃に活躍していたものとして96式艦上攻撃機、その後の飛行機(真珠湾攻撃にも使われたもの)として97式艦上攻撃機を紹介しています。

97式艦上攻撃機の航続距離は、魚雷などをつけず落下式の追加タンクをつければ2000km近くですが、今回は追加燃料タンクをつけず魚雷などを搭載した時の航続距離を1200kmとしています。


○「その時」で示した作戦書について

昭和16(1941)年1月7日、山本は、海軍大臣・及川古志郎(おいかわこしろう)に対米戦に関する作戦案を提出。この文面は防衛研究所に残されています。番組ではその内容から一部抜粋をしています。

*作戦方針

「開戦(かいせん)劈頭(へきとう) 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救うべからざる程度に

 その志気を沮喪(そそう)せしむる」

*具体的方策

「敵主力の大部隊真珠港に在泊せる場合には、飛行機隊を以って

之を徹底的に撃破し且つ同港を閉塞(へいそく)す」


○真珠湾攻撃に対する山本の言葉について

「私が長官であるかぎり真珠湾攻撃は必ずやる。そして、やるかぎりは全力を尽くす。」

 

○山本の生家について

場所:新潟県長岡市坂之上町3丁目、山本五十六記念公園内

(現在残っている家は復元されたものです)


○大黒(だいこく)古戦場跡について

新潟県長岡市大黒町

山本五十六が中将時代に書を揮毫した記念碑があります。


○長岡高等学校での山本の言葉について

山本五十六の母校・長岡高等学校(卒業当時は長岡中学校)での昭和14年の講演より

「私は諸君に対し、銃をとって第一線に立てとは決して申しません。

 あなた方に希望するところは、学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し、

 将来発展の基礎を造って頂きたいと熱望する次第であります。

 どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください。」

(※一部抜粋)



http://www3.ocn.ne.jp/~saigouha/paper04/taiheiyousensouhaiboku02.html
九州科学技術研究所


 3年9ヵ月の及ぶ大東亜戦争を論ずる場合、これを無謀な戦争と位置付ける考え方が一般的であるが、元々日本人は小兵力を以て大敵を敗る事に異常な情熱を傾ける国民である。太平洋を挟んだ大東亜戦争が、日本とアメリカの国力の差を論(あげつら)い、圧倒的大差の敵と戦ったから無謀であったと一概に否定すれば、鵯越え、千早城、桶狭間等の戦いから、日清、日露の戦争まで否定されねばならぬ。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されねばならぬ。



 アメリカの強大な国力を思う時、大国に刃向う事は無意味であるから、朝鮮人民も、ベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、アメリカの軍門に降るべきであったのか?

 そして何故大東亜戦争(太平洋戦争)だけを無謀と決め付け、その譏(そしり)を受けて、日本人はこれ程までに自虐的な立場に追い込まれ、一億総懺悔しなければならないのか?



 われわれ日本人は、この点に於て、本当に論ずるべき事を論じていないのではあるまいか。そして平和主義を唱え、戦争反対をヒステリックにシュプレヒコールして、大東亜戦争期の悲惨な状況に、生理的な反発だけを強めていても、何一つ教訓を得る事に努力していないのではあるまいか。

 真剣にその敗因を考えその中にこそ、真の平和は宿っているのである。




 
アメリカ政府が検討していた対日占領政策は、アメリカ陸海軍共にあった。各々で原典になる文書を制作していた。やがてこれらの諸文書は『民政ガイド』に絞り込まれ、同時にその占領下においてはそれを指導する占領軍総司令部の人員の大半を、左翼的思潮を持つニュー・ディーラーで掌握することが取り決められていた。



 彼等はアメリカ留学やアメリカに亡命経験を持つ日本共産党員と結び付こうとした。そして日本陸海軍の解体を始め、天皇制の問題、皇室の扱い、枢密院のメンバー、帝国議会の議員、政府閣僚、高級官僚、裁判所の判事、大政翼賛会の解散問題、公職停止、宗教団体及び結社や言論の自由化問題をも含めて広い範囲で研究がなされ、その総仕上げ反軍国化、反封建化、反独占化という日本の民主制作を日本共産党のメンバーに委ねようとしていたのであった。



 元々ニュー・ディーラーたちはニューディール政策で判るように、アメリカの共産化を図ろうとしたユダヤ人集団であった。彼等の描いたものはOSS(アメリカ戦略局)という地下組織活動とOWI(戦争情報局)という公然活動組織と結び付き、国務省や統合参謀本部の監督を受けて、『日本の戦後構想』に深く関与し、世界各地で反戦日本人を糾合しようという組織作りを検討していたのである。



 天皇制打破については日本共産党を合法的に発展させていかなければならないと考えていたのである。彼等の天皇制打破には二つの思惑があり、一つは天皇制と天皇を明確に区別すること。

 もう一つは戦前戦中における軍国主義者や軍隊官僚が天皇制をいかに利用し、活用してきたか、ということであり、その結果国民は苛酷な状況に追い込まれてきたという事実を自虐的に認識させることであった。

 しかがって大東亜戦争を太平洋戦争という名前に変更する必要があった。彼等の第一計画は日本人による反戦指導者の庇護と養成であり、第二計画は『機関』を作るという計画であった。そのためには延安いた日本共産党の野坂参三と接触する必要があった。



 OSSの情報将校たちは、盛んに毛沢東や野坂参三らと接触を開始しすることになった。

 やがて日本共産党に、連合軍が日本列島解放のための錯覚的映像を映し始めていたのである。これは終戦当時、日本の共産党員たちの目に、占領軍が解放軍と誤信したことからも容易に判る。



 太平洋戦争当時のルーズベルトとスターリンの関係は、毛沢東と蒋介石の関係からも判るように、彼等は国共合作を組織し、日本の帝国主義的侵略戦争を、共通の敵として絞り込んでいた。したがって日本の無条件降伏と、降伏後の日本の占領及び管理も共同作業の面で連合されていた。戦中も戦後も彼等は共同目的の輪を絞り込みながら、連合軍が統一行動をとる誓約を交していた。それが米英ソ中の四大連合国によるポツダム宣言であった。



 歴史を振り替えれば、第一次世界大戦までは過去の戦争処理方式は賠償金や領土分割などで解決されていたが、第二次世界大戦の処理方式は以前と一変して、賠償金や領土分割よりも、日本の国体やドイツの国体にまで関与して、徹底的にメスを入れ、再び軍備が持てないようにする戦略的戦争処理方式であった。そして何よりも、敗戦国の国民を自虐的な懺悔の土壇場にたせ、猛反省を促す自己反省方式をとらせた。そのためには戦争が如何に悲惨であるか、ということを思い知らさせるために広島長崎の原爆投下も必要であったし、天皇の統治権や統帥権を剥奪して、戦力否定や平和主義の思想も敗戦国の国民に植え付ける必要があった。



 これらは戦中は連合軍の名において、戦後は占領軍の強行命令によって実施されたが、彼等連合軍が目論んだことは東京裁判やニュールンベルク裁判からも判るように、徹底的に敗戦国の国民を総懺悔に追い込み、国体の変更や社会の変革までにメスを入れるものであった。

 戦後我々が教育の中で叩き込まれてきたものは非軍国化と民主化の占領軍による学校教育であった。しかしこれらの政策の裏には、左翼的思潮を持つニュー・ディーラーたちの思惑であった、労働者階級の意識と覚醒という国際ユダヤの戦略があったことに注目しなければならない。



 『民政ガイド』は、日本人の再教育の自虐的懺悔教育であり、発足以来の日本共産党の伝統であった天皇制の完全排除による共和制の樹立という、マルクス・レーニズムの最精鋭実践者たらんことを示唆し、当時の日本を「革命」にまで煽っていった。







日本が絶望的な敗戦の悪夢のプロセスに至るまでの主因となったのは、海軍の珊瑚海海戦とミッドウェー海戦、それに第一次ソロモン海戦と南太平洋海戦である。そしてこれらの海戦の敗北の主因は、全て指揮官の不手際から起こったものであった。殊に井上成美海軍中将の珊瑚海海戦における不手際は有名である。

 これらに比べれば、この時期、陸軍はむしろ常識的な判断で善戦したといえよう。ただし、中国大陸戦火拡大と、ガダルカナルの苦戦に見られた逐次投入という愚行を除けはの話である。


 「頭がよすぎて……」という悪評が付けられた提督たちは他にも沢山いた。その代表格が山本五十六であろう。真珠湾作戦では知将の名を欲しい儘にしたが、ミッドウェー作戦の大敗は一挙に凡将の最たるものに押し下げ、愚将の名すら周囲から飛び出す始末であった。


 山本五十六はミッドウェー作戦の実施に当たり、東条首相が、「近く、総選挙があるので大きな作戦は差し控えたい」と云った意見に対し、「海軍は政府の人気とりのために戦争をやっているのではない」と突っぱね、強引にミッドウェー作戦を強行した。


 陸軍の戦略家として知られる石原完爾は、太平洋戦争を、海軍の無謀な作戦に最後まで振り回された戦争であったと回想している。

 この大きな原因は、陸軍の軍首脳部が海軍の攻撃終末点を確認できなかったこと、陸軍の海空戦に対する認識が薄かったこと、更には海軍の局面的な陸戦隊のピンチに対して陸軍が航空兵力の援助をしなかったことである。陸海軍ともに縄張り争いを主張して足並みが揃わず、最後までそれに固執していたことが、戦わずしてアメリカに勝利を送った結果となったのである。


 さて、日本軍が最大の壊滅状態に陥った主因に迫ろう。

 日本を敗北に導いたのは、ミッドウェー海戦の敗北にあると云いっても過言ではなかろう。

 ミッドウェー作戦の失敗は、白村江以来の敗北といわれ、当時海軍で戦争を体験した人達は、これに触れられることを好まないようである。


 白村江の敗北は、『日本書紀』に記されており、この書物によれば、六六三年、白村江で日本と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍が戦った海戦であり、日本は友好国であった百済の王子・豊璋を救援するために進軍したが、途中唐と新羅の連合軍に遭遇して壊滅状態になり、これが原因で百済は滅亡した。この箇所が『日本書紀』の「白村江之戦い之条項」に記されているのである。


 平安時代、公家たちのテキストとして勉強会に使用されていた『日本書紀』は、親しく購読されていたが、斉明天皇紀のこの条項になると、いつも飛ばして読んだといわれる。それと同様に当時の人々にとっては、ミッドウェー海戦の敗北はショックな出来事であった。


 珊瑚海海戦の敗北を皮きりに、ミッドウェー海戦の敗北、第一次ソロモン海戦の敗北、南太平洋海戦の敗北、ガダルカナルの苦戦と撤退、マリアナ沖海戦の敗北、サイパン陥落、レイテ沖海戦の敗北、台湾沖海空戦の敗北、硫黄島玉砕、フィリピン陥落、沖縄玉砕と日本は一方的な負け戦ばかりを続けている。


 この一方的な負け方は何に起因するものなのであろうか。特に海軍の勝手に仕掛けた作戦が悉く失敗してしまったのは、過去の歴史から見ても空前絶後、前代未聞の失敗であった。

 
その作戦の悉くに失敗を願うかのような流れがあったことも事実である。海軍の流れから云うと、米内政光、山本五十六、井上成美の面々は、日米開戦不可説を唱えた人物たちである。


 彼等は「開戦は同時に敗戦」であるばかりでなく、「最初から負けるための戦争」、「日本を敵国アメリカに売り渡し、その支配下に入れるための手段」を実行したのではないかという疑問がしばし残る。

 その第一の理由として、彼等は戦争目的をはっきりさせなかったということが揚げられる。これを追及すれば、元々勝つための戦争を、わざわざ負けるように仕組んだ様にも窺われる。


 第二に、彼等はフリーメーソンのメンバーであった。負ける戦争をして、日本をその儘そっくりアメリカに明け渡す指令を何者(イルミナティ)からか受けていたのではなかろうかということである。そうでない限り、一方的な負けはなかったのではなかろうか。これは海軍に限らず陸軍にもいた。大本営の参謀であった服部卓四郎、瀬島龍三(戦後は伊藤忠商事会長を勤め、後に同社特別顧問)や辻政信(戦後は国会議員となり謎の失踪をする)らである。何れも統制派集団の軍閥に属していた。彼等は日本の戦局を一変する天王山とも云うべき作戦に全て関わり、大敗をするような作戦の立案をしたのである。


 太平洋戦争末期、海軍兵学校の校長をしていた井上成美中将は、兵学校の生徒に軍事学よりは普通学を重点において指導した。理由は敗戦を既に予知し、終戦工作を準備していたものと思われる。連合艦隊は戦う度に敗れて勢力を減少し、昭和二十年四月七日の戦艦『大和』の沈没で、日本海軍は壊滅状態になった。井上中将の思惑は、今更軍事学など無用だと思ったのであろうが、元々負ける戦いを仕組んだ集団の一員としては、終戦工作に尽力を上げ、積極的に軍隊解体に力を尽くした方がベストであった。


 そして何としても本土決戦を避け、一億玉砕を避けねばならなかった。双方が決戦を行えばいくら優勢のアメリカ軍でも無傷では済まされない。多くの人命が失われ、幾多の血を流さなければならなくなる。親米派の井上成美は、日本人の流す血より、アメリカの青年の血を惜しんだ観がある。その準備が海軍兵学校の外交や政治経済、英語などの普通学であった。


 では井上成美は海軍兵学校における指導教科を軍事学から普通学に変更したのだろうか。

 恐らくアメリカ政府の動向をこの時、既に何らかの手だてで入手していたものと思われる。元々負けるために始めた太平洋戦争である。

 米内光政、山本五十六、井上成美と並ぶこの人脈は海軍の親米派集団であった。彼等がアメリカによって日本は敗北の道を歩み、やがてアメリカによる占領政策が開始されるであろうという推測をしていた節がある。

 アメリカ政府は一九四二年(昭和十八年)八月、国務省内で対日戦後の政策が検討され、その研究が行われていた。


 日本軍はバターン半島を占領し、マッカーサーをフィリピンから追い出して以来、連戦連勝の勝利に酔い痴れた観があった。しかし山本五十六の強行に主張するミッドウェー作戦やガダルカナル中心のソロモン海戦などに敗北を重ね、連合艦隊が戦う度に敗れては勢力を少しずつ減少し始めた頃、アメリカは推測通りの各々の反攻作戦を見事に成功させていた。反攻作戦の成功は早くもアメリカ政府に対日戦の終結目的を考え出させ、日本の戦後処理の焦土と化した占領政策を研究させていたのである。


 もう既に、この時に負けるべき戦いは以外にも脆く敗北の方向に傾き、推測通りに運ばれていたのである。

 指揮官より軍政官の方が向いていた井上成美は、アメリカ政府で検討されていた対日戦の終結方式の特別情報を知っていたものと思われる。






http://www.abysshr.com/san/san_bk08.html


戦後、米内光政は対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされた。しかしながら、戦史をつぶさに検証していくと、米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機会を失わしめた張本人の一人であることが判る。中国においての泥沼が無ければ三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は高い。筆者は米内光政を痴呆と断じているが、米内光政はどうしようもない愚者であったか、そうでないならば、あえて利敵行為を行う売国奴であったと拙者も思う。


・引用始め

 彼等は陸軍に救出され、海軍に帰還することが出来た。従来の例からみて、捕虜の件、機密文書の件、どちらか一方だけでも、ただではすまない筈であった。しかしいずれも不問とされ、軍法会議にかけられることもなかった。そればかりか、二人とも栄転してしまうのである。福留は中将に進級して、第二航空艦隊司令長官に、山本は第二艦隊先任参謀に、それぞれ出世してしまった。前者はその後レイテの戦いで、大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官と共に、特攻作戦の指揮をとり、自殺攻撃の命令を出しつづけるのだ。おなじ捕虜でも下士官兵は処刑され、高級将校は出世する。このダブルスタンダードは、帝国海軍のモラルの顧廃を明瞭に示すものではないか。当時の将星たちに、日露戦争の記憶は残っていた筈である。明治のヒューマニズムをすて去って、戦陣訓に迎合した、これが帝国海軍末期の姿であった。敗れるべき軍隊の姿であった。

・引用終わり


 戦陣訓は陸軍の汚点の一つと拙者は思う。

 「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉に従って、どれほどの将兵が死んだことであろうか。

 明治の時代にはあった「名誉の捕虜」という国際標準の思考が昭和軍人からは失われていた。

 
現代においてリベラルであったと美化されている海軍も例外ではなかった。むしろ本書にあるような異常な待遇差別のある組織であった。


・引用始め

 山本五十六海軍大将は、その最期から悲劇の名将といわれる。たしかに悲劇にはちがいないが、名将と呼ぶにはあまりにも疑問が多い。むしろ愚将とするのが穏当な評価であろう。それも並の愚将ではない。その判断の誤り、失敗の重大性から天下の愚将という名に砿じない軍人であった。例えばミッドウェー海戦で、山本は空母八(三百七十二機)、戦艦十一、重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻、世界最強の連合艦隊を率いて出撃した。ニミッツはハワイで指揮してこれを遊撃した。空母三 (二百二十一機)、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻の太平洋艦隊である。普通の陣形で戦えば勝つのが当然という圧倒的な勢力差である。ニミッッは「あれほど航空優位を主張していた山本が、自分の指揮する艦隊を最も妥当な形に編成し運用できなかったとは信じられないくらいだ」とする (「ニミッツの太平洋戦史」恒文社)。この海戦に敗れた山本を愚将と呼ばずして、何と言っていいのだろうか。しかしその欠陥を逆手にとってまで彼をたたえ、粉飾して名将に仕立てる幇間的作家評論家たちはこれまで数知れず、今ものさばっている。旧軍人の中でも彼を正当に評価する者は少なく、彼をたたえる事によって、国運を傾けた拙劣な戦争指導を糊塗することが多いのである。

・引用終わり


 ミッドウェー海戦は、圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した戦いであった。

 連合艦隊は山口多聞少将の索敵徹底に関する意見具申を入れなかった。山本五十六は大和の情報分析能力により敵機動部隊の動向を知りながら無線封鎖を理由に南雲部隊にそれを伝えなかった。大戦力を擁しながら空母部隊に十分な護衛をつけなかった。

 そのために空母部隊による敵艦隊の発見が遅れ、敵部隊の攻撃により空母四隻を失ってしまった。

 「運命の五分」は言い訳に過ぎない。

 海軍がミッドウェー海戦における戦果を偽ったことも罪が重い。それこそが早期停戦への道を閉ざし、あたら国民の犠牲を増やす結果を招いたのだ。

 もし山口多聞少将が連合艦隊司令長官であったならばあのような戦いにはならなかった。そう拙者は思う。


・引用始め

真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する山口多開少将はじめ、渕田美津雄中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けられたが、連合艦隊司令部でもその是非で、激論が続けられた。その結果最終的には幕僚のほとんど全員一致で、第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし山本は「いや待て、むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官にまかせておこう」「やる者は言われなくったってやるさ、やらない者は遠くから尻を叩いたってやりはしない。南雲はやらないだろう」と言って却下した。まるで他人事のような、傍観的な言辞である。南雲も南雲なら山本も山本だ。この将にしてこの部下あり。「鳴かぬなら鳴かせて見せよう時鳥」ほどの統率力も山本にはなかったのか。それとも戦果をあげた以上、フリート・イン・ビーイングという帝国海軍の保全主義が何よりも優先して、急にこわくなったのか。

ニミッツは「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾門の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であっただろう」(「ニミッツの太平洋海戦史」恒文社)と書いているが、山本の戦術眼からは、重油タンクやドックは物の数ではなかったらしい。

・引用終わり


 ハワイは米国の太平洋における重要な戦略拠点であった。

 真珠湾攻撃の際にハワイの基地機能を破壊しておけば太平洋戦争の様相は大きく変わったであろう。

 山本五十六は軍事的合理性に基づいた部下の意見具申を斥けた。そして、それにより当然獲得できる筈であった太平洋における戦略的優位を失ったのだ


●アメリカ海軍の日本海軍に対する評価



米国海軍長官ノックスが言った。


 「日本軍とは近代戦を全く理解していないか、近代戦を戦う資格のない 軍隊である」



太平洋艦隊司令長官ニミッツが言った


 「日本は先っぽでは米国に勝ったが、戦略では無為にして負けた」

 
「古今の戦史に於て、主要な武器が、其の真の潜在能力を少しも把握されずに使用されたと云う稀有の例を求めるとすれば、其れは正に第二次大戦に於ける日本潜水艦の場合である」



南太平洋方面海軍司令官ハルゼーは言った。


 「心配するな。日本人は、勝ったと思ったら引揚げて行く。追撃して来はせぬ」


勿論、此等の全て帝国海軍に対する批評である。




 そして、敗戦後日本海軍が設けた組織に「史実調査部」なるものがある。連合国が終戦直後始めた作戦の質問に対する、調査及び回答をする為設置した部である。会員は富岡定俊(軍令部作戦部長)を部長とし、以下軍令部・聯合艦隊の参謀からなる10余人である。

 此の史実調査部の会員に、此の仕事を通じて知り合った米国海軍士官のみならず、GHQの軍人でもが、一様に聞く質問があった。即ち次の質問である。


 「日本海軍は何故同じ手を繰返して、其の都度叩き呑めされたのか」


そしてこうも言われた


 「日本海軍は、飛行機を向こう水に消費した。あれではどれ程あっても、 足りない筈だ」


蛇足


アメリカは最初から、占領政策「民政ガイド」があり、占領政策はもとから存在していた。その製作者はS&Bのエール大の秘密結社出身者で固めていた。ヒトラー包囲網からアジアの新秩序の構築に日本を引きずり込む政策であった。ルーズベルトたちのニューディラー派は何者であろうか?。彼らにとってのカウンターパートナーは海軍及び外務省である。また、反日の日本人を世界から集めた・。結果、共産党や社会主義者がマスコミをはじめ核となって、日本の復興へと向かうわけである。戦中の政治犯や裏切り者、売国奴が戦後に責任を回避されている。山本はアメリカ留学に2度言っている。また、交渉は纏めるために苦労したとなっているが、相手に対する妥協の産物でしかない。


●「凡将 山本五十六」から


山本は、軍政にかけては第一級のプロであったが、作戦にかけては岡目八目のアマチュアにすぎず、とうてい第一級のプロとはいえなかった。

開戦劈頭の真珠湾における大戦果は、時の連合艦隊司令長官山本五十六を英雄の座につけた。ミッドウェーの敗北もガダルカナルの悲劇も人びとに「真実」を知らせないことで、山本は〝英雄〟から〝敗軍の将〟にすべり落ちず、最前線での戦死により神格化され、日本敗戦後も声望は落ちることなく、山本提督といえば今や誰もが英雄、名将と信じている「常識」を根底からくつがえす本です(でも書いてある根拠は至って正論のように思う)。

山本は、自分がこうと思いこむと、他人のいうことはすべてロクなものではないと頭から決めてかかり、いっさい聞き入れようとしない。自分の料簡をたてて、中央(海軍省と軍令部)の命令に従わない」という日高壮之丞そっくりになっていた。

時の大臣が山本権兵衛であれば戦争を目前にしての山本連合艦隊司令長官はなかったかのもしれない。いや、いっそ山本五十六が海相なら戦争そのものが回避されていたかもしれない(ただし暗殺と陸軍との内戦は免れなかっただろうが)。

ミッドウェーのころの米国海軍は、日本海軍の暗号をすべて解読していた。何事にも合理的な帝国海軍なのだが、なぜか暗号だけは陸よりも劣っていたという。 山本も暗号を軽視していた。山本は、外交と軍政と航空は重視していたが、あとはこれというほどのものはなく、情報収集とか暗号になると、むしろ性に合わなかった。

「大和」以下の戦艦部隊が無用の長物となったのは、山本が「大和」に乗っていたからだ 似たような指摘は何度も目にしてきたが、こうハッキリ書かれると痛快です(^^;。

真珠湾奇襲作戦を考案し、訓練し、そしてこれを断行した山本五十六提督は古今の名将である。しかし、ミッドウェーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない。

●「フリーメーソン山本五十六」から


現代史最高の謎"真珠湾のトリック"について、一般の日本人は異口同音に「信じられない」という。一方、フリーメーソンの諸君は異口同音に「成程、そう言われれば確かに出来すぎている」と答える。その意味するところは、この謎を解くには、フリーメソンに関する深い知識が不可欠ということではないか。

●「フリーメーソン山本五十六」から

真珠湾の真相が白日に曝される日は近い。
第二次世界大戦の発火点―真珠湾事件山本五十六の真珠湾奇襲構想はルーズベルトも前から予言していた。




蛇足


イルミナティの戦略とは言え、あれや、これやで決して、名将とは程遠い、自分本位で、米国本位であったであろうか?状況証拠と結果がすべてを表している。




負けるべくして負けたのである。日本軍は末端の兵士と下士官は強く、士気も高いが、参謀・将校はボンクラだったか、敵に塩を送った確信的売国奴の集まりだったのかもしれない?


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