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法隆寺はなかった。

大和湖から見た風景:1




平城京

藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4)に審議が始まり、708年(和銅元)には元明天皇により遷都の詔(都というものは「百官の府であり、四海の人々が集まるところである。平城の地は、三方が山に囲まれ南が開け占いにもかなっている。)が出された。 しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。740年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで74年間都がおかれ政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。


桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都(784年)を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラへ不便さにあった。平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった。都には小さな川は流れているが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。


10年間で1mほど大和湖の水はかなり早いペースで干上がった。

若干蛇足



平城京に遷都した頃(710年)は南の端は大和湖から海へとつながっているからこの地に決めたのである。




飛鳥に都がおかれていた時代の608年、遣隋使(けんずいし)小野妹子(おののいもこ)を送って大和朝廷にやって来た裴世清(はいせいせい)ら一行は、難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬川から三輪山麓の海柘榴市(つばいち)に上陸し、飛鳥の宮へ至ったと、日本書紀に記されています。





蘇我氏と物部氏の争いの形跡 大和郡山市 三の矢塚(船から射た3本の矢が届いたところ)標高78m


大海のような湖であった大和湖


南の岸は三輪山麓の海柘榴市(つばいち)標高75m


北の岸は富雄(現近鉄富雄数キロ南)標高78m


ここから徐々に干上がっていったのです。





平城京遷都の頃(710年)100年経って10mも水が干上がった。





平城京九条あたりが限界でありそこから、船で漕ぎでていたであろう。


九条平野標高60mは泥濘の沼のようであろう。


標高55mから58mは水の底です。








しかるに607年創建といわれる法隆寺は標高48mです。




若干蛇足





法隆寺ウィキペディア

聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院である。創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。


通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。





平城京遷都当時(710年頃)


法隆寺の前身として、実験的に建てられた法起寺、法輪寺の標高は56mから58mである。ぎりぎり沼地です。







若干蛇足




法起寺

天平19年(747年)『法隆寺縁起』[2]には「聖徳太子建立七寺」の一として「池後尼寺」が挙げられている。この池後尼寺が法起寺と同一寺院であることを示す最古の資料は宝亀2年(771年)の『七代記』(四天王寺の僧教明の撰)で、そこには「法起寺、時の人喚(よ)びて池後寺とす」(原文漢文)とある。一方、この寺には「岡本寺」という呼び名もあり、天平勝宝2年(750年)の「造東大寺司牒案」(正倉院文書)に「岡本寺」とあるのがもっとも早い例である。


法輪寺 (斑鳩町)

聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年(推古30年)に建てた、とする。今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てた


とするものである。




数十年後沼地が固まって、建立されたのであろうか?。ですから747年ごろに符合します。





とするとその後、数十年後にしか今のような伽藍の法隆寺は建てられない。





法隆寺が670年に建てられたなら、高床式しか可能性はありません


だって5~10mの湖底だからです。 







若干蛇足











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1 ■あまり

気にした事なかったけど細かい年号入れるとつじつまが合わなくなりますね。天皇の記録でも一人が800年もやってたなんてありえない話も出てきますが。まあ半島のようにありもしない嘘は書かれてないと思うけど。

2 ■歴史は今の学者のように

日本を悪者にしたい勢力の餌食にされます。その昔はもっとあったと思えます。(‐^▽^‐)
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