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近つ飛鳥

若干蛇足
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載がある。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道──竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっ。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさす。

ている。

 また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれている。

「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという。

近つ飛鳥の地図


http://www.osakaguide.net/spot/254/map/




若干蛇足
若干蛇足









中国の歴史書には、5世紀に倭の五人の王が、中国の宋へ使いを送ったことが記されている。

 この時期、倭は本州、四国、九州での支配権の確立を進めていく週程で、中国大陸や朝鮮半島の国々と様々な関わりをもっていった。

   このような情勢を反映して、5世紀には様々な新しい技術や文化がそれらの国々からもたらされた。馬に乗ることや硬焼土器の製作がはじまり、一部では文字も使われるようになる。また、6世紀に流行する横穴式石室が近畿地方に伝わったのもこの時代のことである。

若干蛇足
若干蛇足










一須賀古墳群を中心とした史跡公園。6世紀中頃から7世紀にかけて築かれた古墳約100基を整備している

若干蛇足





蛇足


近つ飛鳥から船で遠つ飛鳥へ行くのであろう。あくまで、近つ飛鳥がメインであり、奈良の飛鳥は予備、別荘、出城の意味ではないか?


大和湖は河内湖とつながり海へでるのである。


天皇が石上神宮(物部の神)へ参るということ。


遠つ飛鳥(蘇我氏)へ行く事は、蘇我と物部を支配下に置いていることになる。


太子町は聖徳太子(蘇我氏一族)の太子であるので、この土地は蘇我氏の領地であり、一時代を蘇我氏一族が栄華を極めた証です。


また、渡来人(朝鮮・中国)というが高床式は日本より南や太平洋の方式であるから、渡来人とは何も関係がない。渡来人はまた別の一族のことではないか?


その蘇我氏は大阪堺方面から大和を支配していた天皇家ということになり、その天皇家(蘇我入鹿、蝦夷)を大化の改新で滅ぼす、滅ぼせるほどの一大勢力があったのでしょうか?国内にはなかったでしょう。





河内湖


紀元後も河内湖は残存しており、4世紀
- 5世紀
ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水
を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇
)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江
という排水路を築いた。


その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、江戸時代
の大和川付け替え工事以降のことである。










若干蛇足




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非公開コメント

1 ■無題

勉強になるなぁ。歴史はさっぱりだったです。遺跡とかは好きなんだけど。

2 ■Re:無題

>おいだんなさん
なんか、よく分からんので、勝手に捏造しますからね・。(* ̄Oノ ̄*)
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