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江田島孔明コラムより

◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL134 江田島孔明


 今回は、フセインの処刑によって、新たな局面を迎える中東情勢の今後を、主に、イスラエルの立場で検討してみたい。  まず、今後の中東情勢がどのような展開をするかに関わらず、イスラエルの将来は、非常に暗いと言わざるをえないことは、私の過去のコラムをご覧いただければ、お分かりいただけるであろう。 要約すると、イスラエルの抱える問題とは、ユダヤ人口の減少、ムスリム人口の増大、アメリカにおける親ユダヤ勢力の退潮といった潜在的なトレンドの中で、イラク戦争にアメリカが敗北し、イラク撤退がほぼ確実になったことにある。  この状況は、「援軍を失った篭城戦」に等しく、時間の経過がそのまま不利に繋がる。世界史を概観しても、似たような戦略状況において、局面を打開できたのは、織田信長の桶狭間以外には、ほとんどない。逆に、攻囲側が、篭城側をあらゆる手段で篭絡し、城を落としていく例は、枚挙に暇が無い。つまり、「援軍の無い篭城」とは、本質的に負け戦なのだ。  ここで、考えなければならない点は、ランドパワー陣営にとって、イスラエルを陥落させる意味とは、どこにあるのかということだろう。この問題は、イスラエルがユダヤ人国家として発足したということ以上に、その「地政学的な位置」を理解することで、初めて明確になる。  まず、中東の地図を開いてみれば分かるが、イスラエルは、東地中海に面し、ヨルダン、レバノンと国境を接し、紅海にも面している。この事は、イスラエルが、地中海や紅海と中東を繋ぐ接点であると同時に、欧州やアフリカ、アジアといった大陸の結節点でもあることを意味する。 これは、海上交易や陸上交易の中継点として申し分の無い地政学的位置であり、本来は、東西の中継貿易により、巨万の富が約束されるべき土地なのだ。古代のエルサレムの繁栄は、その事を雄弁に物語る。そして、古代より、エルサレムを支配するの海上勢力とユーラシア内陸部の勢力の対立は意識されていた。





しかし、現実には、パレスチナ問題をはじめとする、周辺諸国との紛争を抱え、経済発展どころから、多額の軍事費の負担が重くのしかかり、アメリカの援助なしでは、やっていけないという状況だ。

 これは、ランドパワー陣営にとっては、イスラエルを陥落させささえすれば、地中海や紅海を通じた海上交易やレバノンやシリアを経由して、欧州大陸に抜ける陸路により、巨額の中継貿易の果実が得られることを意味する。その際の交易品の最大の物は、もちろん「原油」だろう。

 このような観点から、ランドパワー陣営による、イスラエル包囲網がしかれつつあり、イスラエルは、その打開のため積極策に打って出るということになるだろう。

 なお、アメリカは確かに、イスラエル建国以来、兵器や資金面での援助は欠かさなかったが、一度として、イスラエル防衛のため、米軍をイスラエルに駐留させたことは無い。この点が、日米安保が存在する日米関係と、明文の安保条約を持たない、米-イスラエル関係の決定的相違だ。

 今後の展開を予想するに、ランドパワーがシーパワーの重要拠点を包囲し、陥落させた事例として、モンゴル(元)による南宋滅亡の契機となった「襄陽の戦い」を見てみたい。

 元と南宋は長年の戦争関係にあった。元の皇帝となったクビライは、国是となりつつあった対南宋戦役も引き継いだ。その際彼が取った策は、彼本来の作戦-持久戦だった。この際周辺を固める意味から日本にも使者が送られ、それが元寇に繋がったことは有名だ。つまり、元寇は元の対南宋戦の一環なのだ。

 さて、ここでクビライの南宋戦役が行われた状況を考えよう。

 長期戦を考えた元は大軍、とはいってもその大半は華北の漢人部隊だが、を動員して襄陽を囲んだ。そして周辺に長城線を構築し包囲環を形成したのである。これはこれまでのモンゴル軍のパターンと違った。モンゴル軍は基本的に機動力を生かした短期決戦を指向することが多かったからだ。元はこういった長期戦に向かないモンゴル騎兵を督戦目的(あるいは幕僚団というべきかも)の少数にとどめ、漢人を中心とした歩兵部隊およそ10万を使って襄陽の周囲を城でとり囲み、補給を絶っての持久戦を開始したのだ。

 と、同時に襄陽陥落後の南宋本土進攻に備え、水軍の育成を開始する。ほぼ3年ほどの時間をかけ、南宋に匹敵する規模の水軍を育て上げた。10万の攻囲軍と数万という規模の水軍の育成、さらに当時新帝都の建設も始まっていた。それを可能にする元(あるいはモンゴル帝国)の経済力は恐るべきものがあることがわかるだろう。

 この事態を受けた南宋は襄陽に対し死守を命じると共に援軍を派遣した。しかし夏貴率いる援軍は敗北し、南宋は保有する唯一の野戦軍(地域を固定せず運用できる決戦部隊)にして最精鋭部隊10万を派遣する。攻囲開始から3年目のことだった。しかし彼らは敗れた。南宋の陸軍最精鋭とはいえ、元軍には及ばなかったし、そもそも襄陽周辺の長城線は、外からの援軍に対応する築城もなされていた。言うならば南宋は同数で質的にも上回る相手に対する城攻めを強要されたのである。

 さらに水軍も元側の新水軍と城郭設備(水上にも補給防止の工夫がなされていた)の前に破れ、ここに南宋最精鋭部隊は壊滅した。襄陽はあまりに本国から離れた土地であり、襄陽自身を利用できないのならば補給の困難が大きかったことも敗因として挙げられよう。

 特に水軍の敗北は大きい。それは南宋を成立以来安泰ならしめていた軍隊だからである。いかに要衝襄陽を救うためとはいえ、その大事な部隊を長大な補給線を引きつつ敵の罠に真正面から挑ましめ、損耗してしまったことは大きな禍根を残すことになった。たとえ襄陽が陥落しても、水軍さえ健在ならば敵の補給線に脅威を与えることは不可能ではないからである。以後、南宋水軍は元水軍の行動を掣肘できず、2度と歴史に登場することはなくなってしまった。

 この後、小規模な部隊が奇襲的に包囲網を突破して補給を届けることはあっても、解囲の試みがなされることはなかった。その程度の延命措置では襄陽の状況は変わらない。

 そして南宋の援軍を排除した元軍は本格的な攻城戦を開始する。とはいえ人を生身で向かわせるような強攻策は取らない。代わりに導入されたのは新兵器-投石器である。いや、投石器自体は昔から中国にもあったが、ムスリムの技術者を導入して作られたそれは、従来のものとは射程や打ち上げる石の規模という点でほとんど別物だった。

 補給の途絶と投石器による脅威。ついに攻囲6年目、襄陽は降伏した。そしてそれはそのまま南宋の滅亡への引き金となった。

 この戦いで南宋の野戦軍は壊滅しており、また水軍も大打撃を受けていた。襄陽を策源として入手した元軍の行動を牽制できなくなっていたのである。一方で元はこれまで見せていた抵抗者に対する見せしめ的虐殺を行わず、降伏したものは全て許され、中にはそのまま元軍に参加するものもあった。本来地方軍閥の連合体に過ぎなかった南宋は、この事態を受けて急速に解体した。地方軍閥からすれば、攻囲されても南宋政府は救援に来ず、またたとえ来たとしても失敗し、さらには降伏してもこれまでの地位は保証されるからである。

 地方の離反が相次ぐ南宋は13万の兵力を以って最後の決戦を挑むが、ほとんど戦闘にすらならずに崩壊した。彼らは以後抵抗らしい抵抗を見せることもなく首都を失う。襄陽陥落から2年ほどしかたっていなかった。

 その後彼らは3年ほどのゲリラ戦の後に完全に滅亡する。とはいえ最後の3年間は逃亡生活を続けただけであり、南宋は襄陽陥落から2年で滅亡したといって過言ではないだろう。クビライの持久戦プランは、わずか8年で中国南半分を領していた南宋を崩壊に追い込んだのである。

 いかがであろうか、我々は「モンゴル」というと、軽装騎兵の集団戦法を思い浮かべがちだが、南宋の攻略は、その戦略において、後世の日本の豊臣秀吉を彷彿とさせる城攻めを、その戦術において、当時の最新鋭であろうムスリム投石器を用いる等、騎馬民族のスケールをはるかに超越する戦法を生み出している。

 これは、モンゴルが、モンゴル高原の地方政権から大きく飛躍し、ユーラシア全土に関与する中で、グローバルな多国籍企業ともよぶべき連合体を築き上げたということだろう。

 このように考えると、イスラエルを巡る状況は、南宋=アメリカ、襄陽=イスラエル、モンゴル=ランドパワーという対比があることが分かる。そう考えると、レバノンで最近発生した、親シリア派の大臣暗殺は、「長城を巡る局地戦」だ。


イスラエルとしては、援軍が期待できない以上、織田信長のように、桶狭間で奇襲をかけるか、大坂夏の陣の際の真田幸村のように、絶望的状況で家康本陣に特攻をかけるかしか選択肢はない。

 この先制攻撃戦略は、当然、アメリカをはじめとする海洋国家連合が、VOL.133で述べたような中東における均衡戦略を採用するならば、衝突する可能性が高い。

 つまり、軍事的には、アメリカが「イスラエルの第一撃」を阻止できるかどうかが、中東情勢の分かれ道となる。これは、湾岸戦争のときと同じ戦略状況だ。阻止できなければ、中東における核戦争を覚悟するべき。このような、緊張状況下で、ヨルダン国王が来日した意義は、非常に大きい。狙いは、ずばり、パレスチナ問題解決による中東和平への、日本のコミットメントと、中東における核拡散阻止だ。外務省は、下記のように、中東和平のための、「平和と繁栄の回廊構想」を提示している。その構想自体は評価できるが、もう、時間はあまり残されていない。構想を計画に移し、実現していくための、十分な時間が無いのだ。

 私としては、真の中東和平には、「イスラエル問題」の解決なくしては達成できず、それには、イスラエルのユダヤ人の移住先を世話してやる方が、ランドパワー、シーパワー両陣営から喜ばれると思うのだが。

 アメリカがイラクを撤退するに際して、周辺諸国、なかんずく、イランやサウジの協力を得ようとすれば、イスラエル仕置きが、かならず条件になり、ネオコンに代表されるイスラエルシンパが政権にいない以上、「アメリカがイスラエルを見捨てる」可能性は非常に高い。それが分かっているから、イスラエル右派は、「特攻」に出るのだ。

 これは、大坂の陣の際、徳川方が「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた真田幸村を、「寝返れば信濃に10万石を与える」という約束で調略しようとしたことと同じだ。しかし、このような好条件を与えられても幸村は、これを断ったのである。この時の幸村の言葉がふるっている。

 「この幸村、紀州でただ命を長らえているだけのところを秀頼様に召し出され、武士としての面目を立てていただいた身、このご恩は土地や金には到底かえられない。」

 下剋上の時代に、幸村がいかに律儀で武士道を貫き通したがわかる言動である。

 もう一つの例として、立花宗茂は、関ヶ原の戦いでは家康の

<http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.ieyasu.html> 誘いを断って西軍に属し、大津城攻めに参加。

 一番乗りを果たしたのは立花勢だが、一発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかける工夫で、他家の3倍速で銃撃する活躍をしたという。

 味方の大敗で領国に帰還するも抗戦を続け、鍋島直茂の大軍を相手に戦うが、加藤清正の勧めで降伏。島津攻めの先鋒とされるが戦いは中止となり、細川家・黒田家が取りなすも改易処分となる。

 一旦は加藤家の客分となるが、19名を率いて京都へ上り(この頃、前田家や黒田家から招かれたが断ったという)徳川家からの赦免を待った。宗茂一行は清正の斡旋でやがて京都を離れ、江戸へ出て謹慎蟄居した。

 そこで家康・秀忠父子の招きを受けることになり、それからは徳川家に忠実に仕えた。同9年(1604)5千石の書院番頭に任命され、2年後には陸奥棚倉1万石の大名に復活。次いで3万石に加増された。大坂の陣に従軍。冬の陣では浜筋に布陣して城北と対峙。夏の陣では秀忠麾下に属して戦い、その相談役となって1万5千石を加増された。元和6年(1620)には旧領の柳川10万9600石に復帰。秀忠の相伴衆にもなり、次代の家光にも重用された。

 今、イスラエルは、真田幸村のような、特攻に打って出るか、あるいは、立花宗茂のように、本領の柳川を捨て、他領で大名になるかの瀬戸際に立っている。この「対イスラエル調略」を誰が、どうやって行うか。ハルマゲドンか中東和平か世界史の運命の転換点は、まさに、そこにかかっている。



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