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日本は大陸とは関係が薄い・・。

平城京遷都1300年祭が行われる2010年。しかし、大陸文化などと講釈を述べる戦後の御用学者は日本が、太平洋の端の島である事を忘れている。大和は今の沖縄のような軍事要塞地域なのではないか?


飛鳥の都への道は、大和川


 飛鳥に都がおかれていた時代の608年、遣隋使(けんずいし)小野妹子(おののいもこ)を送って大和朝廷にやって来た裴世清(はいせいせい)ら一行は、難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬川から三輪山麓の海柘榴市(つばいち)に上陸し、飛鳥の宮へ至ったと、日本書紀に記されています。

 また、万葉集に残る、藤原京から初瀬川、佐保川を経由して平城京造営を行うようすを詠んだ歌の中には、「・・・隠国泊瀬(こもりくはくせ)の川に船浮けて、わが行く川の川隈(かわくま)の八十隈(やそくま)おちず・・・」とあります。「川隈の八十隈」とは、川の数多くの曲がり角の意味。このことから、奈良盆地の川が、激しく曲がりくねっていたことが示されています。同じく、万葉集には、「・・・四の船 船の舳(じく)並べ・・・」との表現もあり、この頃の水量が非常に豊富であったことがわかります。









600年ごろの大和は


歌に見る大和湖の存在


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち


国見をすれば 国原は けむりたちたつ 海原は かまめたちたつ


うまし国ぞ あきつしま大和の国は




これは以前、読んだ事があったが気にも止めていなかった


たしかによくよく考えてみればヘンな歌だ。


あの山奥の大和平野からどうやって海が見えたというのか?


舒明天皇(第34代天皇
(在位:舒明天皇元年1月4日
629年
) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。


がアホだったのか?いや、そういうことではない


いまならばはっきりといえる、この時まぎれもなく大和は


海に面しており(通じており)まさに陸の玄関口であった事が。




論より証拠、玄関口として有名な所はもう二つある。


推古十六年(608年)に遣隋使小野妹子は帰国する時に隋から


答礼使・裴世清(はいせいせい)と、ともに帰ってきたが


このときに彼らはなんと大和川を遡り、大和湖を渡って海石榴市(つばのいち)


で上陸したのである。その場所は現在三輪と呼ばれている。


応神天皇の時に王仁(わに)や阿直岐(あちき)などが「論語」「千字文」をもって


上陸した軽市は現在、大軽と呼ばれておりここも船着場があった。


ここは応神天皇の軽島豊明宮があったところでも知られている。


これらもすべて大和湖の存在無くしてはありえない非現実的な場所である。


湖の底に遺跡などあるはずも無い・。また、高床式の建造物は東南アジア及び太平洋の島々に極近い風景だろう・。


当時の大和は、今とは全く景観が異なっていた。大和に入った神武天皇の眼前には、びょうびょうたる湖水が広がっていたに違いない。縄文の海進・海退、隆起で、たたなづく青垣の内に取り残された、湖沼と大湿地帯が、大和盆地を覆っていたからだ




?大和盆地の大湖について判明していることは、標高60m以上まで、縄文遺跡の存在があり、それ以下は、当時、湖面・湿地帯であったこと。その後、1800年ほど前の弥生期・古墳期は、標高50m以上までが生活域であり、それ以下は湖面・湿地帯であったこと、などだ。つまり、大和地域の50m線、60m線の周縁部には、多くの遺跡が散在するが、中央の平・部には、縄文・弥生等の遺跡はないということ。それらの時代には、そこは、広く湖底であり、人が住めなかったのだから。





正倉院を見て大陸を思うほうがどうかしている。









下は東南アジアの高床式建築物である・。







この形式は朝鮮や中国の寒冷地帯には無いものなのである。


九州や三内丸山遺跡、古墳などにしても、東北まで、高床式が見られる。また、出雲神社など大建造物がある。




五重塔は物見櫓か灯台であろう。


?


大和はこのような風景であろう・。


■「山の辺の道」や「葛城古道」はなぜ山麓をめぐっているのか。古代集落の多くが奈良盆地の中央ではなく標高6 0 メートル以上の高台に位置するのはなぜか、疑問に思っていたのですが、「山辺の道」と「葛城古道」について調べを進める中で、かつての大和平野は現在とは比べ物にならないほど河川が広く、湖や沼が存在していたのではないか、という思いが強くなりました。海石榴市(つばのいち)は遣随使小野妹子たちが大陸から帰って来て上陸した港であり、王仁(わに)らが「論語」を持って上陸したのが軽市、現在の橿


原市大軽町、葛城山麓の櫛羅クジラ大湊、御所の船路、いずれも古代からの船着場であったといわれています。他にも忍海(おしみ)・船宿.海知・保津・結崎など、水(海)を連想する地名も多く、奈良県中南部の当麻御所・三輪・明日香にはかつて大和盆地に「大和湖」なる浅い湿原があり、当麻から対岸の明日香に舟で往来していたと謂う伝説があります。




米(米穀)にしても、着物(シルク)にしても東南アジアや太平洋を抜きにして考えられないだろう。


?


?


東南アジアの古代のレリーフである。

?


讃岐国出土銅鐸の表面に描かれた高床建築


太平洋や東南アジアなどは今でも日本に友好的であるが、中国や朝鮮は現在も反日、基本的民族・人種が違うのである。敵である時代が長いのだろう・。


?


湖面に浮かぶ物見櫓






?唐子・鍵遺跡は物見櫓か灯台だろう・。


?


何を警戒しているのだろうか??


奈良(平城)・・・平城は城:要塞であろう・。平城京は誰から誰を守っているのか?


後日・・。

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