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by oninomae さんのブログより・。

さてはてメモ帳 Imagine & Think!






原爆の秘密 by 鬼塚英昭 を原爆ホロコースト真実の書として推す。 






私はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか

日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。


それだけではない。広島では、原爆投下直前の八月三日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。




私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。読者は私の本により、原爆投下は何よりも、国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役であると知ることになる。


私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。


この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。


二〇〇八年七月、またあの日を目前にして

                                         鬼塚英昭




アメリカ兵捕虜の予告 「八月六日、ヒロシマは焼け野原になる」







八月六日、ヒロシマは焼け野原になる


撃墜されたB24の乗務員のうち、二人の搭乗員がパラシュートで脱出し、命をとりとめたのだ。その二人は、集まってきた警防団によって、その場で捕らえられた。そして、広島の歩兵第一補充隊から訳二十人の武装兵がすぐにトラックでかけつけ、その二人の米兵を連行した。この米兵たちのように、中国地方に来襲して、日本軍に撃墜された敵機はかなりの数にのぼり、また、捕虜になったアメリカ兵は、少なくとも二、三十人はいたと思われる。


一行は、その集落の旧家に入って行く。木村さんもその後を追って、その家の庭に入って行った。すでに大人たちが集まって、家の中の様子を真剣にうかがっている。家の中では、日本の兵隊による尋問が始まっていた。


尋問は通訳を通じて行われていた。ひとりは赤い髪、そしてもうひとりは、少し青みがかった灰色をしていた。


木村さんは、そのときにひとりの搭乗員が語った言葉を今でも忘れることができない。上手な日本語で、彼は確かにこういったのだ。


「僕たちウソいわない。八月六日、ヒロシマ焼け野原になる」


木村さん自身は、学校に通学する途中で被爆した。アメリカ兵捕虜の予言を聞いてから、その日、学校に行きたくなかったが、無理に自分の気持ちを抑えて出たあとのことだった。


米兵たちは、その後、爆心地に近い広島城祉にあった歩兵第一補充隊の営倉に収容された。


ここで木村さんと同様の経験をしたとの証言もある。

 

「このとき、出勤した兵士の一人である同隊医務班勤務の増本春男衛生上等兵は、その二人の捕虜の食事(米飯、ふかしじゃがいも、みそ汁)を運んだが、そのとき、腕などの擦過傷の手当(ヨーチン、塗布)もした。捕虜の二人は、航空兵とは思われないような青みがかった簡単な作業服を着ており、頭髪は茶褐色で短い兵隊刈り。一人は二十歳くらい、他の一人は二十六、七歳の若い兵隊で、何かおびえており、『おそろしい、おそろしい』という。通訳の見習士官が、『「捕虜になったから恐ろしいのか?」』とたずねると、『いや、ここにいたら死ぬるのだ。近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいては死ぬ』と答えた。捕虜二人は二日間、同部隊にいて、その後は憲兵隊に渡されたようである。」(増本春男談『広島原爆戦災誌』)




(以下略)


NHK広島放送局原爆取材班 久保安夫 中村雅人 岩堀政則 『原爆搭載機「射程内二在リ」』 p87-90 より


握りつぶしたのは?


そればかりか、動員までかけている。なぜだと思いますか?


まさに原爆ホロコーストであった。







原爆投下は予告されていた by 黒木雄司







このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和二十年六月一日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと(一五八頁)。次に七月十五日、世界で初めての原子爆弾核爆発の実験成功のこと(二一四頁)。


さらに八月三日、原子爆弾第一号として八月六日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を三日はもちろん、四日も五日も毎日つづけて朝と昼と晩の三回延べ九回の予告放送をし、長崎原爆投下も二日前から同様に毎日三回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。


この一連のニューディリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長芦田大尉は第五航空情報連隊長に六月一日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告が上申されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。 だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。


--

六月二日(月)晴後曇午後七時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、アメリカのスチムソン委員会は、全会一致で日本への原子爆弾投下を大統領に、ワシントン時間の六月一日午前九時、勧告書を提出しました。また別の情報によれば、米艦載機約六十機が南九州地区の航空基地を主体して空襲し、銃爆撃を致しました。繰り返し申し上げます。


六月四日(水)曇午後三時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、先般、スチムソン委員会においては、原爆投下勧告を米大統領に進言しましたが、軍内部において軍独自に実験してみる必要が急遽発生したため、本日、実験準備命令が出されました。実験部隊、実験場所は公表されておりません。繰り返し申し上げます。


七月十六日(月)雨午後十時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日(七月十六日)も米軍P51百機は、前日に引きつづき東海地方の各都市を空襲し銃爆撃致しました。また別の情報では昨日(七月十五日)、米国ニューメキシコ州アラモゴードで、界最初の原子核爆発の実験に成功致しました。繰り返し申し上げます。


七月二十七日(金)晴午前九時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、先般来、ドイッ国ベルリン市郊外のポツダムで行なわれていた米英支三国合同会議の結果、昨日(七月二十六日)、米国トルーマン、英国チャーチル、支那蒋介石の米英支三国首脳は、日本に対し無条件降伏を要求するポツダム宣言を発表しました。繰り返し申し上げます。


八月三日(金)晴午前八時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、米軍は来る八月六日、原子爆弾投下第一号として広島を計画した模様です。原子爆弾とは原子核が破裂するものであって、核の破裂にともない高熱を発し、すべてのものは焼き払われることでしょう。繰り返し申し上げます。


--


黒木雄司 原爆投下は予告されていた 第五航空情報連隊情報室勤務者の記録 より




++

フランキーな世界支配者配下の日本の支配人たち。彼らが握りつぶしただろう。








蛇足

世界寡頭勢力の手先になれば自分だけおいしい目にあえる。その代わりに数百万人の命と引き替えに悪魔に魂を与えたモノだけができる所業であろう。日本にとってprincipleの無い男(無原則な男・・)白州



答えはこのようだと・。




白洲次郎のプリンシプルとは? by 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道




日本においても原爆工作が必要であったからに他ならなかったからだ。







プリンシプルのない男・白洲次郎の物語


日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。  




一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。


ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。


ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。



青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。



当時白洲が最も信頼していた先輩が「吉田というガンバリスト」であった。吉田が昭和十一年にロンドンの大使館に赴任する前から岳父との縁で白洲は「吉田のおじさん」と呼んで親しかったが、「大人の付合い」が始まったのはロンドン時代からだった。セール商会、日本水産の仕事で英国に渡った際の彼の常宿は日本大使館となった


『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。




一九三七年(昭和一二年)三五歳三月、日本食糧工業(同月、共同漁業に吸収合併され、後に日本水産株式会社)の取締役(後に取締役外地部部長)に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く」とある。


前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。


『有馬頼寧日記(五)昭和十七年~昭和二十年』(二〇〇三年)に日水時代の白洲の姿が描かれている。


〔昭和十九年〕二月二十八日(月)晴

白洲君より空襲の危険迫った話あり。副社長、専務と明日の支社長会議につき話す。海軍の戦果発表あり。今明日空襲のうはさあり。

〔昭和十九年〕八月二十四日(水)晴

午後は、白洲君、日水梅渓氏と暫く話す。
ルーマニアが停戦協定を結んだ由小笠原が大挙襲はれたとの事。

〔昭和十九年〕九月九日(土)雨

白洲君の話に、大島大使が独乙ももはや一ヶ月位だとの事。
英国では灯火管制を解いたといふ。どこ迄も米英的な人。

〔昭和十九年〕十一月二十一日(火)雨

白洲君が又変な聞き込みをやっていた。




白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。


柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。


「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二~三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか
……。


柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。


白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。


徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある


一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。







徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には
、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。


クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。

「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」

「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。
この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。


引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。

FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。

白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた
彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していたそのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。


父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。


白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。







私は前著『日本のいちばん醜い日』でヨハンセン・グループについて詳述した。




この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。



原爆の秘密 [国外編] 殺人兵器と狂気の錬金術  鬼塚英昭 第六章 「無条件降伏せよ」という奸計 p240-249 より









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1 ■真の戦争犯罪者達

失礼します。
日本の大臣と大使の計2名と軍属の1名が、武器商社から
超大金をスイス銀行に貰う見返りに、日本を戦争へ導くよう
に誘導した事について書いてありますのでご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20080808

2 ■無題

コメントありがとうございます。
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